Mev

9.18.19

9.18

10時起床。寝る前に「セックスと嘘とビデオテープ」。面白かった。見た事ない感覚がずっと襲っていて、性はやっぱり1個人過ぎるから面白いこともわかる。その人への入口だなと思う。

1週間でやる事を全てやり終えてたからまるっと休み。時間つぶしに渋谷で「Summer of 85」。前から2列目、ほとんどキレながら見ていたけど ひと夏の思い出とか死とかそういう事が人生に残りやすいっていうのは何でなんだろう。儚げ、とよく言われることはなんだろう。その時そう思ったことをわざわざ感情的に書くのはなんだろうと考える。今まで詩を書く時にこの手法でしか書けないんだと思っていたし、私生活においてそれを特別に感じて感化される事は十二分にあったけど 最近はゆっくりなんとなく長く続いていく事 に重きを置いている、というかそっちの方に美徳を感じる。そう捉えられる人でありたいが故なんだろう。一体いつまで私は全方面に怒っているんだろう。

 

死人の顔はまだ見れない。

 

道中、ナンパに疲れてますねと言われる。

 

恋人と合流。ファミレスで夕食。ファミレス、楽しい。パフェがびっくりする程美味しい。何かの映画の冒頭でお店でご飯を食べているシーンがあって、それを思い出す空気だった。台北ストーリーだったかな。

 

最近本当に人と喋らないでいたら(意識しているつもりは無いから余計癪だ)喋れてた人とでも喋れなくなってしまったと気づく。何を伺っているとか何を考えている訳ではなくて本当にただ純粋に喋れない。

きっと時間の問題だろうと思って紛らす。なんもしょわなくていい。

 

寝る前、こんなに近くにいるのにとか 長く一緒に居たとしても 誰かと一緒になれないことが不思議だ(うろ覚え)みたいな話をした。

私は最近、ドライブマイカーで 誰かと一緒になれなかったり その人の知らない所を含めて受け止める事はダメなんですかと問う場面を見てビックリしたことを話した。それをある種救いであると言ってしまう凄さが。それを聞いて何を思ってくれただろう。

 

もう2年前のように話すには全てが変わってしまっていて 単純な身の上話が出来なくなっちゃったのかもしれないと思う。それは年齢的に考えても必然的であると思う。

 

懐かしむのは辞めていようよという暴力を奮って生きそうだ。

9.19

台風一過!天気も良いし久しぶりに高円寺に行こうと言ってくれて外に出る。知っている人と行くと尚楽しい。古着屋、レコ屋、雑貨屋をぐるぐる。食器屋さんでココイチのテンションになる。昼食はタイ料理。ドカ食い気絶気味。

 

恋人が円盤で 誰かの夏の外の音の記録を買っていて良いなと思った。私は豊田道倫の新譜を買ったりした。

 

西陽が綺麗だと思った。もう元には戻れないんだろう。でもずっと思っていても言えなかったなんでもないこと を話す人なんだろう。

若い頃が全てとは。

 

これを書いて ギターを持って歌っていたら洗濯機が鳴った。

泣かないでいて欲しいという傲慢さが、難しくある。自分を 人に投影し過ぎないように生きていきてたいよ

 

とどのつまり完璧じゃないことはわかっているから人をてらっていきてる