至って個人的な出来事
大江健三郎の叫び声を読んで泣きながら、少し寝た
荒凉として荒涼と荒涼たり
忘れた頃にやってきて欲しい。
道連れはもう 始まっていて
知らぬ間に 部屋が白い
終電車、一人称が 無くなっていくけど
かわらずにかわって 何度でも救われよう
最初の粒子を見逃してる 手放しで 気まぐれの交換
いちぬけよう
光彩の中で一瞬 曖昧な返事
いちぬけようと 逆上している
ひとつとばしの風景
どうしてもかなわない人生との同居。
レコードをおくるという告白。
文字が文字だけの意味を持って入っては来るけど 全く思考ができない日であった 気持ちの波に身体を預けたらずっと涙が出た。野毛の橋の上、本当の君が見える。友だちの思惑に相づちをうったりしてたら日よ。最近はまともに完璧な日が無いようで。誰のせいでもない。薄情だと思っていた、親切な距離。とっても自分のようにわかった気にならないよう。わかってよ わかってるよ わからないよ わかりたいよ そういった事の放棄。風景が全て包むのは良くないけれど。それだけに時間が足りない。深く濃い自由の気の底で、好意だけが 愛だけがある事をまた そうだ、また私は発見してようやく言ってみたのに。もう涙の年齢が似合う私じゃないのと笑ったね。
「君のことを救いたい」
「ひとつの恐怖の時代を生きたフランスの哲学者の回想によれば、人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫びが自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑うということだ。」
「私は変わることができない」
ダリウス・セルベゾフのような人が、いつも憎たらしくて愛らしくて、遠い人。