Mev

5.30

至って個人的な出来事


大江健三郎の叫び声を読んで泣きながら、少し寝た


荒凉として荒涼と荒涼たり

忘れた頃にやってきて欲しい。



道連れはもう 始まっていて

知らぬ間に 部屋が白い


終電車、一人称が 無くなっていくけど


かわらずにかわって 何度でも救われよう


最初の粒子を見逃してる 手放しで 気まぐれの交換


いちぬけよう


光彩の中で一瞬 曖昧な返事


いちぬけようと 逆上している


ひとつとばしの風景


どうしてもかなわない人生との同居。

レコードをおくるという告白。


文字が文字だけの意味を持って入っては来るけど 全く思考ができない日であった 気持ちの波に身体を預けたらずっと涙が出た。野毛の橋の上、本当の君が見える。友だちの思惑に相づちをうったりしてたら日よ。最近はまともに完璧な日が無いようで。誰のせいでもない。薄情だと思っていた、親切な距離。とっても自分のようにわかった気にならないよう。わかってよ  わかってるよ わからないよ わかりたいよ そういった事の放棄。風景が全て包むのは良くないけれど。それだけに時間が足りない。深く濃い自由の気の底で、好意だけが 愛だけがある事をまた そうだ、また私は発見してようやく言ってみたのに。もう涙の年齢が似合う私じゃないのと笑ったね。


「君のことを救いたい」 


「ひとつの恐怖の時代を生きたフランスの哲学者の回想によれば、人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫びが自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑うということだ。」


「私は変わることができない」


ダリウス・セルベゾフのような人が、いつも憎たらしくて愛らしくて、遠い人。