Mev

3.20

なんでもない日 なんでもない人

 

9時起床。祝日で会社は休み。1日を自認する事を意識し過ぎている近頃で、今朝も、今、今今現在が押し寄せてきた。

ラジオを聞きながら部屋を見回したりして、なんでもないふりをする。

 

花粉症がひどくて病院へ行った。採血をするのかと思ったら10秒ほどの問診で終わった。話をしながらpcを打つあの行為がいつも気になる。

 

吉祥寺のルノアールでコーヒーを飲みながら、ゆっくりしている。1人(ひとりぼっち的な意味ではなく)だなと思う。

 

2日前、起き抜けに「真夏の夜のジャズ」を見て衝撃を受けた!Blue Sands。収録されているアルバムを聴く。

それにも飽きてきて、須原一秀氏の「自死という生き方」の続きを読む。

小説も評論も手につかなった頃、気まぐれに取った積読本の中から。本当は3年前くらいに注文したのになぜか届かなくてAmazonで最近買ってた本。手に取るのが怖くてしばらく積んでいた本。

 

これが驚く程すいすい読めた。それにまず驚く。意識してないけどずっと考えていることや知りたいこと、意識の外で根底としてある感情がこういった時にも可視化・体感化されるんだと思った。

読み進められる理由はそこにあるし、そしてまた記されている事に納得でき、面白がって読めるからまた。悲しいかなと、ちょっと思ったりする。

 

機嫌よく、はしゃぎながら という項目がある。

伊丹十三が、金のおにぎりをぱくぱく食べてる感じ、と表現した人生の高・極み!それが死の寸前まで変わらずあった。唯一の遺言として「母ちゃん、最高!」と残ってあった。

その言葉の持つ、ちょっとふざけたような、どこかはしゃいでいるような響き。

極みや高を日常的に感じ続け、彼は自死寸前にも、死という深刻な問題から解放されていたんだろうという、筆者は言う。

 

すごくわかるような気がした。ふざけたように、へらへらと生ききる(死ぬ)のは素晴らしいと思った。今現在どうしてそういって感情移入してるかはわからないけど、自然と、体感でそう思うんだった。

 

お気楽さが自分にはまだあるし、未練も多分あって、なんとなく生きてたりする。その気楽さが死の前にも続いているんだとしたら良いな。自然死でも自死でも、そういった他人を受け入れる・柔らかい何か。が、自分にもみんなの中にあれば良いなと心から思う。死が決して悲観的ではない事を考え、実行したソクラテス三島由紀夫伊丹十三、筆者のことを思うと、考えることや人と話す面白さを思い出させてくれる。今を、すごく細かく見れるような気がしている。

現在を細かく見れなくても、私と言う存在が柔らかくありたい。

 

吉祥寺にあるクラブハウス、cheekyが閉店する。数回しか行った事は無かったけど、すごく良い思い出がうまれた場所だった。

 

記憶に刻まれるのなら、しっかり、それを離さないで。でも、それでも、流れていって。

 

いくつかの夏と、笑い声と、ひとりごとと涙を集めた自分の部屋に帰ろうと思う。